日航機墜落事故と父の思い出

日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落した事故から27年。
毎年、あの事故のニュースを目にするたびに、30数年前、当時のソ連に
不時着した大韓航空機に搭乗していた亡き父のことを思い出す。

欧州旅行からの帰路、父が搭乗した大韓航空機はパイロットの操縦ミスで
当時のソ連の領空を侵犯。ソ連の戦闘機が同機に対してミサイルを発射。
ミサイルは片方の翼に命中。 不幸なことに、その衝撃で 韓国人と 日本人の
乗客、各一名が亡くなった。片翼が吹き飛ばされた機体は、その瞬間、
やにわに急降下を開始したらしい。

ミサイルが命中した場所からかなり離れて座っていた父は、幸い無傷で、
数日後、無事に帰国。帰国後、よく父から当時の話を聞いた。 父曰く、
急降下中、無傷の乗客の意識はしっかりとしている訳で、いったい、
後どれ位で自分の人生が 終わるんだろうかと思うと居ても立ってもいられ
なかったとのこと。御巣鷹山の事故では、不幸中の幸いで4名の方が生存
されていたが、通常、飛行機の墜落事故で乗客が助かる例は極めて少ない。

急降下中、緊急時の態勢として、体を前かがみにするように、体からメガネや
とがったものははずすようにと、客室乗務員が叫びながら走り回る中、父の
近くに居た人はペンとメモを取り出し、 遺書らしきものを書き始めたらしい。
それを見た父は、一瞬、自分も何か 書き残しておくべきかと思ったそうだが、
あまりにも気持ちが高ぶっていて、とてもじゃないが、落ち着いて、そんな
行動が取れるような状態では なかったと。

御巣鷹山の事故現場で家族宛に走り書きされた遺書がいくつか発見された
と知った父は、想像を絶する恐怖と不安の中で冷静に遺書を書けた方たちの
ことを心底、尊敬すると話していた。ほかにも遺書を書いた人がいたかも
しれないが、墜落時に焼けてしまった ものもあったのではと思うと切ない。

幼い頃、小児マヒにかかり、右足がマヒし、その後、生涯、松葉杖を離せない
生活を送った父。肺がんを患い、余命いくばくもないことを知り、自らの手で
閉業するまでの数十年間、小規模ながらも事業を営み続けてきた父。
それなりに数多くの修羅場も経験して きた父。私にとっては、まさに、
根性が服を着ているような人だった。そんな父でも、 さすがに、高度、
数千メートルの高さから急降下する機内では冷静さを欠いたというのだから、
御巣鷹山に墜落した機内で遺書を書かれた方たちの心の強さには感服する。

遺書こそ書けなかった父が、帰国後、話してくれたことを、今も折に触れ、
思い出す。 自分で言うのも面はゆいが、父の言葉を紹介しよう。
『あの瞬間、お前やママのことを考えた。お前は一人でママの面倒を
見ながらなんとか生きて行ってくれるだろうと思って心配はせんかったよ』と
言われた。そのことが、当時23歳の私にとっては、かなり嬉しいことで…….。
今でも思い出すたび嬉しく思う。そして、思い出すたび、あの時の父の期待を
裏切らないようにしようと新たに決意している。

お盆のこの時期、他界して14年になる父に思いを馳せながら、世界中で起きた
数々の 飛行機事故で亡くなられた方たちのご冥福を心からお祈りする。合掌。


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